昭和56年7月27日 朝のご理解  入力者松本正宏


 御理解第九十七節 「神を拝む者は、拍手して神前に向かうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。」

 一心不乱という事だと思いますね。乱れない。一心不乱。中々出来ません。様々な稽古をさせて頂いても、中々難しいですね。御祈念中に、物音やら人の話声が聞こえるようではまだ神に一心は届かんとおっしゃるほどですから。一心不乱。そういう意味でただ今一時の夏期信行があっておりますが、一部の方達ですがね、もうそれこそ一心不乱に御祈念をしてます。もうそれに、皆がつられるようにして、皆もやっておりますけれども、やっぱ一心不乱といったらあの姿であろうと思うですね。あの昼の御祈念なんかを一遍参加してみなさい。はあこれが一心不乱だなあと思いますよ。はあ自分の祈願詞をもうそれこそ一生懸命で声の限りを尽くしてのいわゆる、神様に向かっておる姿。あの一生懸命の姿に触れただけでおかげを頂く人があります。それに一心に向かっておる人たちの場合はその後の何というでしょうか、神様に向けた後の気持ちというかね、本当に、有り難い清々しい気持ちが致します。そういう有り難い清々しいとか言う心におかげがあるのですね。やっぱ。有り難いと思う心。すぐにみかげの始めと仰るようなそういう心を鍛えていくのですよ。私まだ福岡の長浜町で修行中時分にあるとき神様から、一晩、当時は大払いをあげましたからね、大払い何巻と頂くのです。ところが、もうとにかく、蚊がいっぱいおるのですから、その、蚊に刺されてもはらはないわけですね。ですから、大払いが途中で間違ったり、何遍も繰り返し繰り返し、間違うと、近所にまあ、二三町離れたところに、こう葦なんかが茂っていて、埋め立てたそれのほうにまあ、下駄履きで行くとずぶずぶ残るようなところがありますがそこまで行って、そこでまた、御祈念をして、また、ご神前に出て御祈念をするといったような修行をさせられた事がございます。大払い何巻ですからすぐ済むようですけれども、そんなわけで蚊が、一杯おりますからね。もう痒いと思うただけで、大払いが、それを、手でこうこうすりゃもう、良いですけれどもね、それをまあしないといったような、まあ今から考えますとまあ無茶な修行であったように思いますけれども、神に一心をむけるやっぱ修行であっただろうとこう思います。とうとう、朝夜の明けるまで、その大払い何巻かがあがらんのです。間違うからです。間違うたら、間違うたと神様が、それでまた初めから始める。といったような修行をさせて頂いたことがあります。朝目が覚めますと、一杯血を吸った蚊が一杯落ちておりました。そういう、稽古もまあさせて頂いた。
 ある時には、丁度母が来ておりましたが、すぐ隣に、朝鮮人の朝鮮部落というのがございました。今の、あすこは、福岡の図書館があるところのあのへんです。もう、バラックのまあいうならば(?)というでしょうか、そこで、朝鮮人の方が焼酎の密造をやってました。それに火が入ったのですね。ですからもう、それこそ焚き付けばっかりの家ですね瞬く間に何軒焼けて、それから、もう、私の、私はもうあの、母やら家内子供を外へ出して、私は中から、鍵を下ろしてこう一生懸命御祈念をさせてもらった。もちろん電気は消えます。もうこういう場合に神様に向かう一心と私は思うのですけれどもそれでもその、ちょうどその日、私はろうそくの小さいの箱を買ってきてましてね、それを洋服のポケットの中に入れておったのです。それを忘れておる。それを出せばすぐ灯りが付けられたのだけれども、その、ろうそくが切れておった。それで私が買ってきておったけれども、買うて来たことはやっぱ忘れておった。それでもう外からね、一生懸命に、その消防の方達もあっと言う間に自動車が沢山消防自動車が集まりましたが、もう、どんどん、外から崩れるように叩くのですよ。詰まっておるもん、中に人間が一人おるちいうので。もう私は外から見えませんでしたけれども、もう、こうそれこそ、一駄目に燃えてしまうのじゃないかというような状態だったところがです、後から聞いた話でしたけれども、あげな事を見たのは初めてち言う。私のほうの家にあの、燃えかからんばかりのつが、橋が一本だけ落ちだそうですね。こうやって。そして、反対の方向へ変わっちゃった。ね。まあ、私の一心を神様が受けてくださったのかもしれませんけれども。
 もうとにかく、あんな様子を見た事がないと皆が言われまして、近所に焼け残った方達があくる日、もう、大坪さんの信心のおかげで家は焼けんで済んだというてお礼に出てこられて、そして、金光様につれて参ってくれというてご信者が出来るほどしでした。その事で。これなんかも、やっぱり私は一心だと思いますけれども、まだその今言う、ろうそくを買うてきておってそれを忘れておる、ちっとばっかり上がってきたわけでしょうね。本当言うたら、上がってもならんのでしょうけれども、神様はそれを一心とみそなわして、今言うように、燃えておる火が一本たちになって反対の方へ変わったというようなおかげを頂いた。ね。だから、今日ここに言われます、それこそ槍先でつかれてもと言われます、後ろから槍先でつかれても振り向く事は出来んぞと、もうよしこのまま家が焼けて自分も一緒に焼け死んでもといういわばどん腹据えてご神前に額ずいておるのですけれども、まあ少しはあがっておる感じがしますね。おろうそくあげておることを。自分が此処に持っておることを忘れておった。ね。というように、信心にはそういうものがいるのですね。御祈念をする時に、ね、勿論合楽では御祈念も致しますけれども、話を聞いて助かる道だから話を聞いて心が開けるという事ですけれども、なら心が開けるというてもその、開けた心がです、ね、ちょっと人からどうか言われるともう心が迷う。人からちょっとこう言われるともうそれで、振り向くような事をする。ね。
 先日ある人が参ってきて、合楽のその、お参りをその親戚がお参りをしてきておるけれども、おかげにならない問題が幾つもあるわけです。そしたら、ある宗教する、また親戚の方が合楽の金光様はこげな事でん助けきらしゃったらんのちこういうたち。それにはまあいうなら返事の仕様もなかったとこう言うことです。本当にこれは私も思いましたけれども、私の力不足ですけれども、人間が思う願いとおりになるというだけが信心じゃないのですよね。そういう風に言われたらその言われた人がほんにそうたいと私は思うたような感じがしました。私これを聞きながら。ね。その時に私は合楽理念に基づいて、その言うた人にも説明でもしてやれるような、信心を頂いておかなければいけないなあと思いました。ね。私は、神様へ向かってからはとこう言われる。だから、その御祈念をする姿勢、構えをここでは説かれておると思うのですけれども、日頃の私共の信心の構えというものがです、それこそ槍先でつかれるようなそれこそ、ブスッとくるような事が、例えば言われても思われても神様に一心、私の心は合楽から変わらない。私が合楽にかけておる願いというものは一心不乱だというようなものがなからなければ私は一心とは言えないと思うです。どうか言われたらすぐ迷いが起こる。どうか言われたら、その人が言うとがほんな事に聞こえたりする。一心不乱でない証拠です。ですからそういうところにです、なるほどおかげの頂けないはずだといったようなものも、分かってくるわけですけれども、ね、信心の構えというのはここでは神に向こうたらという御祈念の姿勢構えでしょうけれども、私共が日頃頂いておる教え、その教えを頂いて、その話を聞いて助かる道といわれるその道を知っておる覚えておるのですから、例えどういうような事を言われてもどういうような事があっても、ね、私の心は一心、合楽にというようなものがなからなければ、そういう、姿勢構えがなからなければ神に一心は届かんという事になるのじゃないでしょうか。形の上においてもまたは、心の上においても、ね、一心をそのためにいよいよ、合楽の研究。いうなら、合楽の信心、いよいよ、合楽の信心の絶対性、といったような信心の確立を願わなければいけないと思うですね。
                                     どうぞ